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母についての備忘録

 投稿者:まっぺん  投稿日:2015年 1月 6日(火)17時12分52秒
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  12月末から今日(1月6日)まで、新潟(西蒲区巻)に行っていました。正月3日間毎日雪でした。訃報を伝えなかったので届いた年賀状への対応や35日法要など、「長男」のつとめを果たしてきました。次の18日が49日の法要なので、また新潟に行きます。母のお見合い写真と思われる写真を某方面にアップしました。古いアルバムに少女時代や女学校時代の写真がたくさん残っている。以下、母とそれを育てた祖父母についての覚え書き。

●祖父のこと
 祖父金島秀一(かねしまひでいち)は自分の過去をあまり話さなかったのでその経歴がほとんど分からない。周囲から聞いた乏しい情報によれば、広島の花柳界に生まれ、「金島」は母方の姓だった。という事は、正式な婚姻による子どもではなかったのだろうか。今も広島に分骨されたお墓があるらしいが行ったことはない。なお、日本人で「金」という字が入るのは沖縄以外には珍しく、祖父への手紙は「新潟県・金島秀一」だけで届いたほどだ。もしかすると祖父の母は朝鮮系だったのかも知れない。祖父はやがて関西学院大学に入学した。その勉学の費用は母がお金を貯めて工面したのか、それとも実の父からの援助によるものなのだろうか。いろいろ想像はできるが確かなことはまったく分からない。祖父はやがてそこでキリスト教を知り、洗礼を受けた。西の関学は東の立教と並び、英国国教会系のキリスト教大学である。祖父の成績はかなり優秀だったらしく、英語も流ちょうに話せた。大学卒業後、山下汽船の社員となり、高額の収入を得た。山下汽船は三菱財閥等とも縁が深く、ともに日本資本主義を牽引する企業の一つとして莫大な収益を上げていたらしい。祖父はブルジョアジーではないが、その下で高給をとって働くエリート社員だった。いかにも高給取りらしく、当時の庶民にはできないようなスポーツをやっていた。テニスでは国体に出場した事もあるが、当時の事であってみれば、テニス人口が少なかった時代、趣味でやっている程度でも出られたのではないだろうか。また当時ほとんど普及していないゴルフなどもやっていた。

●祖母のこと
 そこに嫁いだ祖母佐藤ハルは、福島・相馬藩の筆頭家老の格式高い家系だった。有名な相馬の野馬追いの行事では佐藤家当主がこの行事の両軍の一方の総大将を務めてきた。しかし近年の震災の後はどうなったか知らない。明治時代にそれまでの身分制度が廃止され、四民平等となったが、その遺制は続き、小学校の卒業証書授与の際には「佐藤ハル 氏族」と呼ばれた。金島家に輿入れの時には先祖伝来の大小の日本刀を持参した。それはやがて大刀(本差)が金島の長男の家に、小刀(脇差)が母を通じて高野の家に伝わっている。名門氏族の娘と成金平民との結婚は、「花子とアン」の白蓮と九州の炭鉱王の婚姻をミニチュアにしたようなものだが、いずれにしてももっと前の時代ならあり得ない組み合わせだったと言える。ただし祖母の名誉のために付け加えるが、決して金目当ての身売り結婚ではなかった。
結婚後、祖母もまもなく洗礼を受けてキリスト教徒となった。私も幼い頃、よく祖母に連れられて教会に行き、聖体拝領の儀式を受けた。祖父アクラ秀一、祖母エリサベツハルは今は一緒に新潟小針の紫苑の丘に眠っている。園内の小高い丘に大きな十字架があり、そこから新潟海岸が一望できたが、今では宅地造成のため見えなくなっている。

●母のこと
 祖父母のもとで母はお姫様のように大事に育てられた。少女時代にはピアノを習っていたが、飽きたのか、それとも才能の無さを思い知ったのか、やがてやめてしまった。私がアンダーソンの『ウオーターローの戦い』やブルグミューラー『貴婦人の乗馬』など初歩のピアノを練習している時、母が懐かしそうに聴きながら、自分も子どもの頃に弾いていたと語ったことがある。
 母は新潟女学校(今の新潟中央高校)を出て、千代田女子専門学校に入学した。それは今の武蔵野女子短大にあたる。母は祖父の仕事の関係で何度か引っ越している。東京、静岡、富山など。東京ではあの忠臣蔵の四十七士の墓で有名な泉岳寺の近くに住み、住職にかわいがってもらったという。また祖母とともに2・26事件をまのあたりに目撃した。富山に行ったのは戦争による疎開だった。戦後、一家は新潟県三条市に移り住み、ここが祖父の終焉の地となった。
金島家で母は一人っ子だった。しかしやがて祖父が養子を迎えたため母はその妹となった。長男となったのは金島正一。余談だが「島」の字をとると、字は違うが「キムジョンイル」と読める。旧姓入村。入村正一には巻中学(現巻高校)時代からの親友がいた。それが高野幹二だった。余談のついでに、高野幹二から「野」をとると「高幹二」(コ・カンアル)となり、中国人らしい名前となる。ふたりは巻中時代ともにヴァイオリンを学び、クラシック音楽に通じていた。当時の新潟にはクラシックを知る者などほとんど皆無だった。それから数年が経過し終戦。2年後、ソ連抑留から戻って来た幹二に正一は言った。「俺は名字が変わり、妹ができた。俺の妹を嫁にもらってくれ」。こうして父と母は出会った。
 復員後、新潟県庁に務めた父の給与は少なく、家は貧しかったらしい。「らしい」というのは、私も妹も貧しさを感じた事がまったく無かったからだ。しかしいま振り返ると、そういえばカレーには肉は一切入っていなかったし、たまに食べることができた肉はことごとく魚肉ハムだった。また、キャベツの油炒めや魚肉ソーセージの焼きそばが素晴らしい御馳走だった。「お金持ちのおじいちゃん」から時々レストランでご馳走してもらったり、クリスマスパーティに連れていってもらったのが夢のような思い出だった。
 公務員の給与は民間に比べて少なく、今とは逆だ。もっともその原因は民間の給与が大幅に減ったからであって、公務員の給与が高給になったからというわけではない。そんな貧しい生活の中から、私は大学まであげてもらった。かけがいのないやさしい母と父。いま思うが両親、とりわけ母は幸福な人生を送ることができたとつくづく思う。子どものころから問題ばかりおこし、長じては反体制運動にかぶれて学校から何度も呼び出しを受けた道楽息子をよく最後まで見放さなかった。母には本当に感謝するばかりである。もちろん父にも。
 
 
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