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木畑壽信氏「現在の戦争の性格とわれわれの態度」を論評する

 投稿者:まっぺん  投稿日:2017年 9月25日(月)20時55分44秒
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  ※一昨年、雑誌『流砂』の「戦争放棄特集」に木畑氏が投稿した文書があまりにもひどかったため、それを論評する文書を書いた。こうした論争は、「明日の世界」をめざす者にとって必要なことであり、批判は「誠意」として受け止めるべきだと思う。本人には生前、手渡したが、なにも返答はなかった。すでに公表した文書だが、あらためてここに再掲する。(武峪真樹)

木畑壽信氏
「現在の戦争の性格とわれわれの態度」
(以下「木畑文書」)を論評する

                   武峪真樹


■国民国家についての考察

21世紀の戦争の性格について
 現代の戦争は資本主義経済」を抜きに語ることはできない。経済という下部構造の上に、政治の一手段として戦争が行われるからである。
 さて、「流砂」2015年第9号にはそれぞれの論者がさまざまな角度から見せてくれた戦争についての深い洞察、鋭い指摘がある。

「国民国家」概念がゆらいでいる
 「国民国家」について、「国民」と「国家」との一体化に対する批判的観点から日本国憲法を見ようとする伊藤述史氏の試みには「国民国家間の戦争」として演出されてきた2度の世界戦争を止揚する立場が貫かれている。
 「国民国家」とは、「Nation State」の訳であるが、それはまた「民族国家」とも訳される。なぜなら、そもそも国民国家は民族国家として形成されてきたからである。近世まで領主の私有物であった「領域国家」から、その領域に住む人民共通のアイデンティティ=「民族」による国家へと再編された結果生まれてきたものだ。それ故にこれらの国家は国民国家であり、また同時に民族国家でもあるのだ。例えば300諸侯からなる江戸幕藩体制を明治維新によって打ち砕き「日本民族」の国家として再建した明治国家がまさしくそれである。
 しかし、20世紀までそのようにして生まれてきた民族国家(国民国家)は21世紀の今、「新たな分離独立運動」あるいは「自己決定権の主張」に直面するという転機を迎えている。スコットランド、カタルーニャ、そして沖縄――これらの地域が抱えている問題は「民族独立運動の細分化」とみなすこともできるが、一方、「国民国家」そのものが限界にきているともいえる。すなわち「民族的同一性」を国家の基礎としてきたことの中に見える欺瞞性、「支配民族」と「被支配民族」との軋轢が拡大し「国民国家」というシステムが制度疲労を起こしているということだ。日本で言えば沖縄・アイヌ・朝鮮などの「異民族・異文化」を強権的に「日本民族・日本文化」に統合してきた歴史の限界を省みることなく「単一民族国家・日本」という欺瞞的政治支配を続けてきた結果がいま、沖縄の「自己決定権の主張」という形で噴出している。

「国民」から「市民」へ、「階級」へ
 山田宏明氏の「二一世紀の戦争―『殺戮の連鎖』は絶てるのか」では、21世紀の戦争の姿を20世紀に到達した「総力戦」と比較し「ゲリラ戦」へと変化していると指摘する。第2次世界大戦において最高点に到達した「総力戦」型の戦争は、戦争終結とともに過去のものとなってしまった。それは核兵器の登場、あるいは、それまでの「国家間の戦争」ではなく、「階級戦争」の本質を持つ「革命戦争」の発展、また「国民」概念の後退と新しい市民意識の拡がりなどの理由からである。総力戦の衰退と共に「国民国家」概念も解体に向かってきた、と言えるのではないか。「国民」概念から国家を超えた「市民」概念へ、また戦争の本質を貫く「階級」概念へ、さらにそれを深化させた「マルティチュード」概念による分析も試みられている。
 こうした概念の変化を念頭において、木畑文書を観てみると、氏の文書はまことに「残念」と言わざるを得ない。戦争について考えるうえで必要な、そうした歴史的分析が皆無だからである。

■文書全体の構成

資料と主張とのバランスの問題
 まず文書の頁配分が非常にアンバランスなのに驚かされる。全体で25頁のうち、最初の約2頁分は、この文書を書くに至った動機、そして文書全体の「目次」といっていい解説が続く。そのあと、9・11テロとそれに対するアフガン侵攻の経過説明について、全く主体的立場を捨象した客観的説明に約7頁、【註】を始めとして法令やマルクス、吉本の文章を写した客観資料などに9・5頁を使い、自らの主体的主張に使われているのは残り6・5頁であるが、その6・5頁には、「『九・一一武装闘争に対するわれわれ一般大衆の態度』」、「『アフガニスタン侵攻』の性格とわれわれ一般大衆の態度」、「東アジア地域における戦争の性格とわれわれ一般大衆の態度」と題する3つの「われわれ一般大衆の態度」が書かれている。ところがその論旨の主要な部分では、一部を除きほとんど同一パターンといっていい「第一」から「第七」までの「行動綱領〈政治テーゼ〉」が3回、機械的に繰り返される。各国の政治状況をこのように機械的に叙述することに違和感を感ぜざるを得ないが、これではこの文書の「主張」とみなされる内容は、3分の1のわずか2頁分あまりにしかならないだろう。
 25頁のうちの核となる「主張」部分は2頁分を3回繰り返してあとはほとんど資料ばかりとは、驚くべき頁配分と言わねばならない。

東アジアにおける戦争の性格の根拠は?
 既述のように、戦争についての客観的記述は9・11テロと、それに対する米国・有志連合軍による報復戦争のみであり、東アジアにおける戦争の歴史や各国間の力関係などについては一言も書かれていないにもかかわらず、唐突に「東アジア地域における戦争の性格とわれわれ一般大衆の態度」が書かれているのである。つまり、「主張の根拠」となるものは何も提示されていないのだ。また9・11とその後の経過についても、提示されているのは客観的資料だけで、資料と主張との因果関係は認められず、根拠とは到底言いがたい。「論拠」が示されていないのでは「論文」とは言えず、「文書」と言うしかない。

■「国民国家間の戦争」は出現するか

「国家」に替わって台頭する「市民」意識
 以下、われわれに最も関係する「東アジアにおける戦争」を中心に論評する。ここでは3つの「テーゼ」なるものが次のように提唱されている (以下「流砂」2015年第9号170頁より引用)。

〈二〇一五年テーゼ〉
〈第一テーゼ〉
 東アジア地域における戦争は、現在の資本制的社会構成体と近代憲法体制の国民国家の段階において、東アジア地域の国民国家の間の帝国主義戦争は、すなわち、商品と資本の輸出が領土の分割と確保および支配を必然化するような戦争は、出現しない。
〈第二テーゼ〉
 東アジア地域における戦争は、東アジア地域の国民国家の間の、総力戦体制の構築の元での、戦線布告を伴う全面的な殲滅戦争は出現しない。
〈第三テーゼ〉
 東アジア地域における戦争は、東アジア地域の国民国家の間の国境線において、国境線の特定の箇所における領土帰属問題に端を発する、国民国家間の国境紛争である。  (引用ここまで)

 ここでは戦争は「国民国家の間」で行われると断定されている。20世紀後期以後、「国民国家」という概念自体が希薄となり、「個」としての人間を主体とする世界が広がり、国家よりも、市民ひとりひとりの「人権」を重視する「市民」概念が発達している。このような特徴を持つ現代社会において、なぜ戦争というものをことさら「国民国家間の戦争」に限定して解釈しようとするのだろうか。戦争が「国民国家間でおこなわれるだろう」と予測する根拠はなにか?

「国民国家間の戦争」はそれほど多くない
 木畑文書は「国民国家」なることばを多用しているが、20世紀後期以降の戦争の多くは国民国家間の戦争ではなかった。朝鮮戦争はふたつの国に分断されたひとつの民族が双方の立場から「国家統一」を目指す戦争であった。また、アメリカ帝国主義の反共戦略を背景に起こった東西両陣営間の戦争でもあった。ベトナム戦争も、ベトナム民族の独立を巡る戦争であり、これも「国民国家の間の戦争」とは言いがたい。

3つの「テーゼ」が意味するもの
 テーゼとは哲学的綱領ともいうべきものであるが、ここで述べられている3つの「東アジア地域における戦争」についてのテーゼは、「テーゼ」と名付けるほどに重要な内容なのであろうか? 3つのテーゼを1つに要約すれば「現代の東アジアに起こる戦争は、帝国主義戦争ではなく、殲滅戦争でもなく、国境紛争である」ということだ。3つにわけるほどのものとは思われないが、「テーゼ」は次のような形式で組み立てられている。――「第一テーゼ=Aではない」、「第二テーゼ=Bではない」、「第三テーゼ=Cである」。
 このような論述形式は、普通は三者択一の表現である。つまり同一のカテゴリーの中の互いに対立する3つのうちひとつだけを選ばせる場合の論述形式である。ところが、「帝国主義戦争」「殲滅戦争」「国境紛争」はどれひとつとして同一のカテゴリーには含まれないし対立する概念でもない。初歩的な文法の問題として、この「テーゼ」の分類の仕方には違和感を覚える。

■〈第一テーゼ〉 について

資本制的社会構成体?
 〈第一テーゼ〉の中で「資本制的社会構成体」などという言葉が使われているが、普通はこんな言葉は使わない。マルクスは生産力の発展段階と、それを土台とする上部構造とを総合的に表す概念として「経済的社会構成体」という概念を打ち出し、それを5つに分類した。即ち、原始共同体、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会、共産主義社会である。つまり「資本制的社会構成体」とは「資本主義社会」の意味に他ならないのである。なぜことさらこのような言葉を使うのだろうか。その必然性をまったく感じられない。

具体的理由説明がない
 〈第一テーゼ〉は要約すれば「帝国主義戦争は起きない」と言うことだ。東アジア地域で「帝国主義戦争」を戦う能力があるのは、軍事力世界第二位の中国と第三位のロシアと第九位の日本と第十位の韓国だけ(2014年軍事費比較)だが、「戦争が起きない理由」が書かれていない。つまり何の分析もなく結論だけが書かれているのだ。これで「テーゼ」と言えるのだろうか?

「古典的帝国主義戦争」の時代は終わった
 植民地再分割戦としての帝国主義戦争は70年前に終了し再び起こる可能性は少ない。理由のひとつは核兵器の登場である。もうひとつの理由は宗主国による植民地の直接統治がなくなったからだ。代わりに大資本が国家の枠組みから離れて多国籍資本となり、旧植民地諸国からの搾取は続いている。だから古典的な意味での帝国主義戦争はなくなったが、帝国主義諸国が弱小国家や地域を襲撃する戦争はいまだにつづいている。(新しい形の帝国主義戦争の可能性については後述)

■〈第二テーゼ〉について

宣戦布告は不必要
 ここでは「総力戦体制のもとでの宣戦布告を伴う殲滅戦争は出現しない」と、3つの条件が揃った戦争の出現を否定している。では3条件が揃わない戦争、たとえば「宣戦布告を伴わない殲滅戦争」とか、「総力戦ではない殲滅戦争」ならありうるのだろうか?
 そもそも「宣戦布告」などは帝国主義国家同士の戦争の「マナー」に過ぎず、戦争の本質とは何の関係もない。旧日本帝国主義は対米英戦争開始にあたって、アメリカに対しては遅れたため宣戦布告としては無効となった。また英国に対してはまったく宣戦布告を行なうことなくマレー沖の英国東洋艦隊を攻撃し、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと戦艦レパルスを撃沈したのである。

「殲滅戦争」の意味
 カール・フォン・クラウゼヴィッツが『戦争論』のなかで提唱した「 Vernichtungsgedanke」は「殲滅戦」(または「撃滅戦」)理論と訳される。18世紀ヨーロッパの戦争はそれぞれの王国が雇用した傭兵同士による戦争であり、一方が優勢となった時点で互いに戦力を温存したまま戦争を終わらせるのが「文明国の人道的な戦争」とされていた。しかしフリードリッヒ2世率いるプロイセン軍は敵軍の完全撃滅によってヨーロッパの覇者となっていった。また革命後のフランスでは国家の存亡をかけて「国民軍」が組織され、統帥するナポレオンによって敵戦力を撃破する戦法が採られた。これらをクラウゼヴィッツが「殲滅戦」と名付けた。「殲滅戦」とは戦術理論である。だから「殲滅戦争」というのはことばの使い方が間違っている。

殲滅戦から総力戦へ
 殲滅戦の目的は速やかに敵の戦闘能力を奪うことにある。殲滅戦理論は19世紀には通用したが、日露戦争や第一次世界大戦のころになると、機関銃などの兵器の発達と塹壕戦とによって戦争は持久戦(消耗戦)へと推移し、持久戦に耐え抜く戦力を長期に維持するため、「国家総力戦」(総力戦)が必然となっていった。したがって「国家総力戦」の時代には「殲滅戦」理論は通用しなくなったのである。
 「持久戦」と「殲滅戦」とは対立する概念である。木畑文書の「総力戦体制のもとでの殲滅戦争」ということばは矛盾しており、クラウゼヴィッツを理解しているとは言いがたい。

総力戦から人民戦争へ
 第二次世界大戦において、殲滅戦はドイツ軍によって「電撃戦」という形で復活したが、ソ連軍(スターリングラード攻防戦)やレジスタンスの抵抗による持久戦の前に再び敗れた。そして第二次世界大戦後には戦争自体の階級的性格が変化し、中国革命以後は国家権力が国民に強制する「国家総力戦」型から、より革命的な毛沢東の「人民戦争」型へと発展してゆく。
 「殲滅戦争」なることばはそもそも専門的用語とは言えないが、「大量殺戮」の意味で使用しているなら「殲滅戦争」ではなく「絶滅戦争」とか「殺戮戦争」と言うべきだろう。

■〈第三テーゼ〉 について

国民国家間の領土紛争の事例
 ここでは東アジア地域における戦争は国民国家間の国境紛争という形で起こると規定されているが、その根拠が示されていない。
 1982年のフォークランド紛争は「国民国家間の領土紛争」であり、当事国であるイギリスもアルゼンチンも自立した軍事行動が可能であったが、東アジア海域では米帝国を盟主とする同盟国家群と中国・朝鮮連合とが軍事的対峙関係にあり、個別の国家が米国に無断で勝手に戦争できるはずがない。木畑文書には、米帝国のアジア戦略についての分析が全く抜けている。

領土問題は戦争の本質的原因か
 例えば釣魚台(尖閣)や独島(竹島)をめぐって「中国と日本」あるいは「朝鮮と日本」が戦争を起こす可能性はあるだろうか? もしそうなったら、それは形式的には「国境を巡る国民国家間の戦争」と呼べるかも知れない。しかしそれでは全く本質的理解に至っていない。
 尖閣諸島(釣魚台)周辺には中国軍機がたびたび飛来し、日本政府はこれを「国境侵犯」と声高に非難している。しかし台湾も尖閣諸島領有権を主張している事を忘れてはならない。「尖閣諸島は日本から返還された領土」というのは両「中国」の共通認識なのだ。だから日本が「尖閣諸島を巡って中国と軍事衝突する」というなら、同じ理由で「台湾も日本の敵」ということになる。しかし「日華戦争」の危険は今のところ無い。それは「戦争の本質的原因は領土以外にある」からである。

国境問題は外交方針の問題
 2013年に日台両国(安倍政権と馬政権)は尖閣問題を棚上げし漁業協定を結んだ。安倍政府は中国に対しては敵対政策をとり、台湾に対しては平和協定を結んだのである。また「尖閣問題棚上げ」論は44年前の日中国交回復に際して中国(周恩来)と日本(田中角栄)の間でも合意した歴史がある。つまり国境問題は外交方針によって平和的解決が可能なのであって、それを何の前提もなく戦争の原因として持ち出すのは現実を無視している。
 対中戦争の危険性は、むしろ米軍のアジア戦略と、それに追随し中国との敵対路線に利用する安倍極右政権の政策から来ているものと理解するべきである。国境における衝突があったとしても、それは対立の「口実」にすぎない。

■米帝国の戦略と、自立する市民

「国民」から「市民」へ
 東アジアで「国民国家間の戦争」が起こる可能性は現代では少ない。第1の理由は、国民を政府の戦争に従わせる事が極めて困難だからである。ベトナム戦争時、アメリカ市民の大規模な反戦運動が広がり、それは米軍をベトナムから撤退させる強力な圧力となった。そのころから国家が国民に戦争を強制できなくなったのである。
 その原因は国家への忠誠に基づく「国民意識」が希薄となり、民主主義、人権、自決権の発達による「国境を超えた市民意識」がそれに代わってきているからである。
 もうひとつの原因は、貧困と格差が深刻となり、国家が「忠誠を捧げるに値する対象」ではなくなってきたからだ。

戦争は米帝の覇権下で起こる
 「国民国家間の戦争」が起きにくい第2の理由は、アメリカの覇権のもとに世界戦略が構築されているからだ。かつて世界の軍事力の半分を占めていたアメリカは今では世界の3分の1に後退し、中国の軍事力がそのアメリカの約3分の1に拡大しているという軍事バランスの中で、それでもアジア・太平洋地域最大の覇権国家として君臨するアメリカは、東アジア各国の軍が米軍の手足となって米戦略を支えてくれる事を望んでいるが、米軍の許可のない勝手な軍事行動を絶対に許さない。それは米軍の東アジアにおける覇権を脅かすことになるからだ。

米軍「対中戦争」のシナリオ
 米太平洋軍はハワイに司令部を置き、陸・海・空・海兵隊30万の兵力を極東、インド洋、太平洋全域に展開している。この米軍には「対中戦争シナリオ」が存在し、海上自衛隊「海幹校戦略研究」に翻訳掲載されている。その構想では、核戦争が不可能な現代では米中両国ともが核兵器を使用せず、両国は互いに安全なままで「日本列島およびその周辺海域」という限定された場所で戦争を行なうと想定されている。最初に沖縄が壊滅し、次に日本全土とその周辺が戦場となる。また米軍のこの戦略に沿って自衛隊は沖縄や宮古島など、広く南西諸島一帯に「日本防衛」ではなく「台湾防衛」のためのミサイル基地を建設しつつある。(機関紙『コモンズ』88号4頁・武峪真樹論文を参照)

新しい形の「帝国主義戦争」
 たとえ東アジア地域の国境地帯で衝突が起こっても、それが本格的な「戦争」にいたるのは米中両国が「戦争」を決意した時にのみ可能である。その場合の戦争は「国民国家」などという「国家単位」ではなく、米・日・韓・台・比同盟と、中・朝同盟という、「対峙する二大陣営」間で「集団的」にしか起こり得ない。その戦争は核兵器使用を保留した局地戦であり、アメリカと中国との「世界覇権」を巡る「新しい形の帝国主義戦争」である。
 つまり戦争が起こるとすれば、〈第三テーゼ〉型の「国境紛争」ではなく、新しい形の〈第一テーゼ〉型「帝国主義戦争」となるという事だ。その時には「戦争遂行の停止=停戦を呼びかける」(木畑文書〈第四〉)などとのんきな事を言っている場合ではない。米国防総省のプランによれば、もしも米中戦争が起こった時には、日本全土が戦場となると想定されているからだ。

現在も進行中の戦争について
 中東ではパレスチナ闘争や「イスラム国」問題が現在も続いているが、中東の国境線は第一次世界大戦によってトルコから領土を奪った時に、英仏帝国主義のヤミ取引によって勝手に線引きされたものである。したがってこれが「国民国家の基礎の上で」(「流砂」2015年第9号167頁〈第二〉)再構築されるべきだというのは帝国主義への加担である。どのような国家を建設するかは、何よりも「国家なき民」クルド民族なども含む当事者である中東・パレスチナ諸地域の人民が自ら決めることであって、我々が「テーゼ」の名で彼らに押し付けるべきではない。すでに指摘したように、そもそも「国民国家」とは「民族国家」の成立過程で生まれた概念であったが、中東地域では「民族」よりも「イスラム」をアイデンティティとして強調される事が多い。そうした問題をまったく無視して「国民国家」(民族国家)を押し付けるのは現実を無視している。また「われわれ一般大衆は・・・タリバンを打倒する」などと述べているが、驚くべき反動的な、帝国主義者に加担する主張である。タリバンを作りだしたのが米軍とCIAであることは広く知れ渡っているが、それを打倒するかどうかも含めてそれぞれの地域の民衆が主体的に解決する問題であって、われわれが彼らの意志を吟味もせずに命令するのは僭越である。
 また、安倍はこれらの戦争に参戦し、米中戦争にも米帝国側の一員として参加するために「集団的自衛権」と「安保関連法制」を必要としたが、これについて木畑文書はまったく言及していない。なぜ他国の問題には口を出しても、日本民衆の「主体」としての問題については言及しないのか。日本の多くの「一般大衆」が「戦争法廃止」「集団的自衛権反対」「安倍政権打倒」を叫んでいるにもかかわらず、である。

■〈二〇一五年行動綱領(政治テーゼ)〉 について

ドル体制の没落と世界の分散化
 今や世界は、90年代以後急速に経済発展を遂げた中国や、米帝国に反旗を翻した中南米諸国や、米帝国と同盟関係を保ちながらも政治・経済の分野では相対的に独自の道を歩み始めた欧州連合など、米帝国の没落とともに各々独自の方向に進みつつある。それを典型的に示すのが中国の提唱したアジア・インフラ投資銀行である。ここには日米が拒否したのとは対照的にアジアやヨーロッパの主要な国家群が参加を表明している。これはドル体制の弱体化の結果であると共に、弱体化をますます促進するものとなる。こうした状況の中で、覇権の維持を目論む米帝国の世界戦略と「不可分の一体」として、東アジアの軍事体制は構築されている。

〈第一〉から〈第七〉までの時間的整理
 以上に踏まえて〈二〇一五年行動綱領(政治テーゼ)〉(171頁)の〈第一〉から〈第七〉までを見てみると、その〈第一〉は賃労働が存在せず、共同労働であると言っているのだから、時間的には最後の段階になるだろう。そして〈第二〉は政治革命の遂行を謳っているのだから、〈第一〉に向かう段階ということになる。また〈第三〉は戦争遂行政権を批判し、〈第四〉で停戦の呼びかけ、〈第五〉でこの政権を打倒するというのであるから、「戦争遂行政権」の存在を前提としている。つまり時間的順序としては、〈第三〉~〈第七〉、そして〈第二〉、〈第一〉ということになる。
 この中で〈第七〉について考えてみよう。ここでは「東アジア共同体」が想定されているが、どのような共同体を想定しているのだろうか?

EUのような共同体では意味がない
 欧州連合(EU)は、欧州経済共同体(EEC)、欧州共同体(EC)などの段階をへて、国境検問の廃止、通貨統合までに至った。
 しかし欧州の人々はこの「共同体」によって「安心・安全の秩序」(172頁〈第七〉)を獲得できただろうか? 金融資本の暗躍によって経済破綻に陥った国々が出現し、その破綻からの脱却のために国家が民衆を犠牲にしている状況、また欧州連合自身が分裂の危機に陥っている状況を見れば答えは明らかである。〈2015年行動綱領(テーゼ)〉がめざすのはこのような「共同体」ではあるまい。

もうひとつの共同体の「モデル」
 我々はもうひとつの「モデル」を見守っている途上にある。それはウーゴ・チャベスが提唱し2011年に結成されたラテンアメリカ・カリブ海諸国共同体だ。まだ発足したばかりで経済統合が進んではいないが、ここには欧州連合とは大きな違いがある。それは「人民の権力が推進している」ということだ。
 それらの政府は圧倒的な民衆の力が資本の側の対抗馬を抑えて勝ち取った政権であり、社会主義に向かう大きな可能性を持っている。そのような民衆の政権が主導権を握った共同体であることが、欧州共同体との決定的な違いである。その分岐点は「資本に奉仕する共同体」なのか、「民衆に奉仕する共同体」なのかである。

東アジア共同体はいつ出現するか
 そのような共同体は、どの時点で出現するのか? 〈二〇一五年行動綱領(政治テーゼ)〉では「戦争政府を打倒」(第五)→「産業資源の国際的共同管理」(第六)のあとに出現するとされている。しかし、それでは「東アジア共同体」は資本にヘゲモニーを握られた欧州連合のようにしかならない。なぜなら欧州連合(EU)こそ「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)という、産業資源の国際共同管理を目的とする機関が出発点だからだ。また〈第五〉の政府はまだ戦争政府を打倒しただけの「別の資本主義政権」に過ぎないからだ。
 東アジア全体が米・日・韓・台・比同盟と中・朝同盟との軍事的対峙関係の中に存在し、また経済の面でも没落する「ドル経済圏」と、勃興しつつある「人民元経済圏」との経済競争の中で両陣営に分裂している東アジア諸国が民衆のための「共同体」などつくれるわけがない。せいぜい各国資本の利害が一致するTPP協定のような段階に留まるだろう。
 したがって〈第七〉は〈第二〉のあとでなければ不可能である。つまり「民衆の側に立つ東アジア共同体」は、アメリカ帝国の干渉を排除し自立した「民衆の政権」(それは政治革命によるものであろうと、ラテンアメリカ諸国のように選挙によるものであろうと構わない)によって作られるのでなければ不可能である。

■戦争に関して我々がとるべき道

全ての戦争は帝国主義に責任がある
 すでに述べたように古典的な形での帝国主義諸国同士の戦争は起こせない。それに代わり帝国主義諸国による経済的・政治的・軍事的介入がパレスチナ・中東・東欧・アフリカ・その他世界中で武力衝突を引き起こしている。またその一部は本格的軍事衝突に発展している。これは「国家対国家」というよりも「強者による弱者の人権・生活権の蹂躙」である。その結果、弱者側の対抗手段としてテロ攻撃が起こっている。
 この「悪無限の泥沼」と化した戦争世界の元凶が世界帝国主義体制であり、この体制の頂点で利権をむさぼるアメリカ帝国であることは明白である。今日、世界中で起こっている全ての戦争は、これらの帝国主義諸国の利権の強奪がその原因である。その一部が外見上「宗教的対立」に見えようとも、本質はまったく変わらない。

直近の具体的な「戦争の危険」
 帝国主義世界の盟主として君臨するアメリカは、彼らの戦略構想に基づき、日本政府に向かって極めて具体的な「任務」を要求している。その内容は平和憲法を投げ捨て、今までの「経済的支援」の段階から、後方支援(補給・兵站)、さらには最前線での戦闘参加といった軍事的任務まで踏み込んだ、アメリカの「全面的戦争同盟」へと日本を引きずり込み、米軍の戦争に自衛隊を「参戦」させることである。
 安倍政権はそのアメリカの要求に積極的に応え、集団的自衛権容認を閣議決定し、それに関連する11本の「安保関連法」(戦争法)を強行採決で可決させた。今後、自衛隊は米軍下請けの傭兵として戦場に投入され、米軍が「敵」と認定した相手を米軍に代わって殺傷し、また自分も米兵の身代わりとなって「戦死」するという可能性が生まれた。また米軍の戦争に加担する日本は「テロ攻撃の対象」となり、世界中の在留邦人にも危険が及ぶことになった。
 われわれが今直面しているのは、このような直近の具体的な「戦争の危険」なのである。

日本における具体的な我々の任務
 今、われわれがやるべきことは、いつ起こるかも分からない「東アジアにおける国民国家間の国境紛争」に「停戦を呼びかける」ことではなく、「米国の戦争への日本の参戦」を目論む日本政府に反対し、自衛隊の海外派兵を阻止することである。また「安保関連法」廃案、辺野古新基地建設阻止に向けて闘うことである。そのためにもあらゆる手を尽くして全ての人々と団結し安倍政権打倒を目指さなければならない。
 それは日本の平和憲法を守り、沖縄人民の自治権・自己決定権をとりもどすための闘いであるばかりでなく、米帝国と闘う全世界人民との連帯闘争であり、米帝国打倒に向けた全世界協働の闘いの一環である。

 2015年11月        武峪真樹

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