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木畑壽信氏への追憶のために

 投稿者:まっぺん  投稿日:2017年 9月25日(月)20時41分37秒
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  木畑壽信氏への追憶のために
                          2017.7月11日     武峪真樹

1951年生まれ。
私と同じ歳だ。誕生日が来ていれば66歳。彼と知り合ったのはいつだったか、正確には覚えていない。「アソシエ21」の講座に何度か参加した時に知り合ったような気がする。いつだったかロシア革命とプロレタリア独裁についての講座があり、その帰りの電車の中でその話をした事がある。電車の中で大きな声で10月武装蜂起や中央集権のことを語る彼に向けられる周囲の冷ややかな視線に彼は気づいていないようだった。正直いって、その時のかれのロシア革命についての知識は正確ではないと思った。正確でない知識から正確な判断は生まれない。その時は自信に満ちた彼の持論にうなずきながら聞き流すばかりだった。

やがて「変革のアソシエ」が発足し、私はその事務局員となった。彼もとても熱心にこの運動に参加し、「講座担当」となって毎回の講座の事務を担当するようになった。その熱心さには驚くものがあり、講座テーマを選択し、それに沿って大学教授や研究者に連絡して講座での講義を依頼していた。また毎回の講座には必ず出席し、参加者名簿の作成、受講料の徴収業務などをおこない、書記として講座内容を文書に記録して参加者全員にメールで送っていた。そのうえ、自主的に研究テーマを決めて何人かと共に研究会を開催していた。また1ヶ月ごとに翌月の講座予定をチェックし、ホワイトボードに記入していた。これらの仕事は自分だけが担当し、他の誰にも任せなかった。
毎年4月におこなわれる年度ごとの総会や記念シンポジウムにも関わりつづけた。総会に提出する議案のひとつは前年度の各講座についての成果であった。20近くもの講座の全記録を作って議案として配布。また次年度開設される新しい講座についても全て議案書にまとめて公表していた。それは膨大なエネルギーが必要な作業であったが、それもまた誰にも任せず彼ひとりがおこなっていた。

 彼の興味の対象はそうした学術的な研究であるらしかった。それも哲学的であって、しかも政治的にはマルクス主義につながるような分野である。吉本隆明はそれにふさわしい対象だ。おそらく学生時代の左翼運動の経験から吉本隆明には強く惹かれていたのだろう。同年代の左翼系知識人のあいだには吉本は今でも人気があり、崇拝する人もいるほどだ。彼もまたその“吉本崇拝者群”の一角を占めたいと思っていたのだろうか。
 書物に対する彼の熱心さは、哲学、政治に関わる書物を読むだけでなく、自らなにか本を書きたいという衝動にも顕れていた。季刊『変革のアソシエ』には彼の論文は出なかったが、栗本慎一郎・三上治の両氏を共同編集代表とする『流砂』に編集実務者として関わり、毎号に文書を載せ、それを周辺の知り合いに自慢げに配っていたことにも、その性向は見てとれた。
 一昨年、この『流砂』が第9号「戦争放棄」特集を発行し、様々な論者が戦争の問題、その遂行主体となる「国民国家」の問題について論じていた。ここに木畑氏も一文を載せ、それを私に「献本」してくれたので読んでみたが、あまりにひどい内容に私は腹をたて、反論の文書を送った。いま西太平洋海域はアメリカを盟主とする同盟諸国とその「仮想敵国」である中国・朝鮮連合との対峙関係の中にある。ここで戦争が起こるとすれば、この国際関係を抜きに考えることはできず、その関係性の中に沖縄の軍事基地も存在する。彼はそうした条件を一切捨象し、いつ起こるか分からぬ「国民国家同士の国境紛争」を第三者の立場から調停することを「われわれの任務」だと主張する。それに対して私は沖縄の米軍基地に反対することが戦争阻止へ向けて我々がやるべきことだ、と反論したのだ。
彼はどんな将来を頭に描いていたのだろうか。
できることなら、どこかの大学の教員となって深遠な哲学的命題について研究しつつ自説を語り、また書物に書くというような人生を送りたかったのではあるまいか。本を書くことへの執着も、また講座への熱心な関与もそれを示しているように思われる。そのための手段なのかどうか、あるいはそもそもの彼の性格がそうさせたのかどうか、「変革のアソシエ」や、「流砂」、「社会理論学会」等を通じて知り合った知識人や学者たちとの交流に熱心であったが、その反面、周囲の知人や友人への扱いは全くちがっていた。自分の主張が通らないと突然激昂し相手を怒鳴りつけ、「命令」を下す。権威主義のヒエラルキーを構築し、その中で「上」に媚び「下」を見下だし愚弄する態度を見せる彼にはうんざりさせられるものがあった。
少なくとも私は彼と何度かぶつかった。批判の手紙を送ったこともある。いや、「ぶつかった」というのは正確ではない。彼は私と対等の立場でぶつかったのではない。上から怒鳴りつけて命令を下したのだ。仕事上の私の領域に、何の権限もなく土足で踏み込み、無理やり命令に従わせようとする態度には耐えられなかった。こういうことがあってから、私はボランティアでやっていた「変革のアソシエ」の講座案内組版の仕事をやめ、その後は事務局も降りた。季刊『変革のアソシエ』本文のデザイン・組版も降りた。もはや彼と一緒に仕事をすることに耐えられなかったからだ。表向きの理由は、「他の仕事が忙しいから」という事だったが、真相は木畑氏との衝突に原因がある。

 そういうわけで私は彼が大嫌いだった。変革のアソシエ会員にも、彼を嫌って辞めた人が何人かいる。彼が全ての講座の講座担当をやり、講座の中に深く関与している限り、彼を嫌いな人で我慢できなくなった人は辞めていくしかなかったのだろう。
 なぜだろう。不思議に思うことがある。
このような権威主義にこだわり、上下のタテの関係にこだわる人物が、なぜ階級を廃絶し対等・平等の社会を建設しようとする組織にいることができるのか。そういえば彼はその組織の会議では必ず書記を買って出ていたが、それがどこかスターリンと重なる。スターリンも書記長の地位を利用して共産党の権力を簒奪していった。権力構造の中でそれを利用して力で相手を支配してゆく手法はマキアヴェッリとも重なる。彼は自覚してはいなかっただろうが、そうした手法を、いつか目的を獲得するための手段として無意識に使っていたのだろうか。
マキアヴェッリを私は嫌いではない。むしろ好きな方である。しかしその手法は「敵」との関係でふるうべきなのであって味方の中でそのような手法を用いるのはやはりおかしい。
 しかし、それでも彼にはまだまだ「チャンス」があった。こんなに早く死期が訪れなければ、いくらでも「あたらしい自分」を見つける機会はあった。研究者としての熱心さも誰にも負けなかった。彼のためにとても残念に思う。

 最初に「異変」を訴えたのは桑畑正信さんだった。
7月1日の労働講座に彼が全く何の連絡もなく欠勤したというのだった。そのあと5日には経理の佐藤さんとの約束にも来なかった。全く連絡もなく約束を破ることなど、これまでの「厳格」と言っていいほど几帳面な木畑氏には絶対に考えられないことだった。7月第一週には6日、7日、8日と講座が予定されていた。私は機関紙『コモンズ』の編集でも忙しかったが、なんとか時間を作って、彼の代わりに3日間の講座事務を担当した。まだその時には「九州の豪雨被害に遭遇した可能性」などを考えているばかりで、埼玉の現住所に行ってみることまで思いつかなかった。しかし、生田さん、大野さんとも相談し、まず大野さんが尋ねていったが、鍵がかかっていて、呼びかけても応答がなく、あらためて出直すことになった。
月曜日、私も大野さんと一瀬弁護士事務所の小田さんとともに3人で木畑邸を訪ねた。ご近所にあいさつがてら聞いてみたら、1週間以上も電気が点けっぱなしで、回覧板も放置されていたという。鍵を開けて中に入り、一部屋一部屋を捜索し、やがて、点けたままの電灯、点けたままの大型テレビ、点けたままの空気清浄機とともに、横たわる彼の遺体を発見した。

 警察に連絡し、自宅前で事情聴取を受けた。小田さんは先に帰り、あとからやってきた三上さんと3人でタクシーを拾い、駅で別れた。身体はそれほど疲れていないが、精神的な疲労感がどっと来た。彼の遺体が目に焼き付いて離れない。不思議なものだ。あんなに大嫌いだった人物なのに、先週一週間、「もしかしたら」という心配でいっぱいだった。九州の豪雨被害に遭っているのではないか、次には自宅で強盗か、それとも突然死か。「いちばんあり得ないことだが、突然何もかも放り出して失踪した可能性」を伊藤述史さんが口にしたとき、内心「いっそ、そうあって欲しい」と願った。それならば少なくともどこかで生きていることになる。しかし、そんな楽観的観測は最悪の形で裏切られた。

あれからずっと、彼の「人生」について考えている。人間は必ずいつかは死ぬが、普段から「人生」などという重たいものを考え続けるひとはいない。しかしそれが今は頭から離れない。木畑邸からの帰りのタクシーの中で、それから電車にのり事務所に向かうあいだじゅう、そして事務所に着き、今朝8時過ぎに『コモンズ』を校了にした後も考え続けている。彼はどんな人生を送ってきたのか。あの性格ではプライベートな話ができる人はなかなかいないだろう。彼にはどこかにお姉さんがいるらしい。また九州に不動産を持っていてそれで収入を得ているらしい。しかしその住所まで正確に知っている人は誰もいない。それにしても10日間もひとりぼっちでいたなんて寂しすぎる。「孤独死」の一歩手前だ。
その死に方はあっという間だったことが想像される。あっけない死に方だ。しかし、人生、そんな死に方の方がいいのではないか、とも思う。なにかの重病に冒され、鼻から、腕から足首からやたらとチューブを付けられ、何もできずに死ぬのを待ちながら何ヶ月もベッドに横たわる日々を暮らすよりは、いっそ、彼のようにあっけなく死にたいと思う。

 木畑氏と知り合いの「ある人物」が、自分がよく行く酒場に彼が時々ひとりで飲みに来ると言っていた。しかし目があってもこちらは知らん顔をする。それで木畑氏はひとり寂しげに酒を飲んでいるというのだった。それを愉快そうに話していたことがある。実際、彼が人といっしょに酒を飲む姿はあまり想像できない。あの性格ではなかなか親しい友人はできなかっただろう。しかし、こころの奥底ではやはり人が恋しかったのではあるまいか。彼が酒場に現れたのは、「酒」が目的なのではなく、「飲み友だち」を求めてのことだったのではないだろうか。しかしそれをうまく表現できない。そして自分の主張を強く押し出し、命令口調で怒鳴ってしまう。
 これを書いているあいだ、フォーレの「月の光」を何度聴いたことだろう。木畑氏への追悼のつもりで3分あまりの短い歌曲を、朝からもう100回以上も聴いている。
まったく趣きを異にするが「月」にまつわる2つの歌曲をずっと思い浮かべていた。ひとつはアーノルト・シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」。これはほとんど精神分析学的な、不気味と言っていい曲だが、不思議なことにぞっとするほど美しい。そしてもうひとつが、このガブリエル・フォーレの「月の光」だ。木畑氏を送る時には聴かせてやりたいと願う。

彼はほぼ10日間、誰にも看取られずにあのままじっと横たわっていた。9日の夜は満月だった。月だけが遥かの高みにいて、窓のむこうからそっと彼を見守っていたのだ。


アルベール・ジロー
月に憑かれたピエロ

1、月に酔い
目で飲むワインを
月は波のように 夜ごと降り注ぐ
そして大潮は溢れ出す
静かな水平線から
恐ろしいほど甘美な欲望が
計り知れぬ洪水となって泳ぎわたる
目で飲む酒ワインを
月は波のように夜ごと降り注ぐ
祈りに突き動かされた詩人は
この聖なる飲み物に酔い
恍惚として天に頭を向け
よろめきながら吸いすする
目で飲むワインを

2、コロンビーヌ
月の光の蒼白い花たち
純白の奇跡のバラの花たちが
七月の夜に咲く
おお その一枝でも手折れたら!
私の胸の不安をやわらげようと
私は探す 暗い流れに沿って
月の光の蒼白い花たち
純白の奇跡のバラの花たち
私の思いもしずまるだろうに
こんなお伽の国のようなこんな幸せの中で
とても幸せそうにしずかに振りまけたのなら
お前の栗毛の髪の毛の上に
月の光の蒼白い花たち


ポール・ヴェルレーヌ
月の光

Votre âme est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques,
Jouant du luth et dansant, et quasi
Tristes sous leurs déguisements fantasques!

Tout en chantant sur le mode mineur
L'amour vainqueur et la vie opportune.
Ils n'ont pas l'air de croire à leur bonheur,
Et leur chanson se mêle au clair de lune,

Au calme clair de lune triste et beau,
Qui fait rêver, les oiseaux dans les arbres,
Et sangloter d'extase les jets d'eau,
Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres.

あなたの魂は選りすぐった風景
魅惑的な仮面、ベルガモの衣裳
リュートを奏で、踊りゆく
幻想的な仮面の下に悲しみを隠し

恋の勝利や人生の成功を
彼等は短調の調べにのせて歌う
その幸福を信じる素振りもなく
その歌は混ざりあう、月の光りに

悲しく美しいあの月の光の静寂に
梢の鳥たちを夢に誘い
すらりとした大きな大理石の噴水を
うっとりとすすり泣かせるあの月の光に

 
 
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