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私は川田氏の政治主張とは全く異なる立場ですし、川田氏を巡る今回の2次会のテーマは、あくまで支援者の間で本来話し合われるべき事でしょうから、一般論として3次会で書きます。混乱が起こるようでしたら削除して結構です
川田氏の選挙マニフェストやそのホームページでの主張についてですが、勿論、これはこれで選挙前に川田氏と支援者がじっくり論じ合って作ったものだろうとは思います。しかし、私が従来の川田氏の発言や文章を読む限りですが、氏は自分の薬害体験と、そして運動経験の中で、彼なりの政治主張も、市民の政治参加への意識も、また、マイノリテイへの共感も持ったとは思いますけれど、それ以上の、このマニフェストで示されているような総合的な政治認識は、少なくとも従来の発言内容からは感じないんです。
私はそれを悪いといっているのではないんです。川田氏を一つのシンボルとして、このマニフェストのような内容を支持して集まった多くの方々の思いを実現していく、その過程で、川田氏自身も、あえて言えば走りながら学んでいく、そういう政治活動はそれはそれであっていいと思う。
しかし、しばしば起こりがちな事ですが、実際にそういう方が議員に当選すると、今度は政治・行政の現場では、小林よしのりさんみたいな言い方で嫌かもしれないけど、やっぱり『プロ』にであうわけですよ。すると、今度は純粋な人ほど、悪く言えばそれほど現場を知らない人ほど、逆にそっちの論理に引きずられていく事があります。例えば私などは大した例ではありませんが、脱北者の救援を口で言ったり書いていたりするときは行政や政治家の批判はいくらでも出来ますが、実際に交渉する段になれば、行政や政治家のほうが、現実に難民を日本に受け入れる上では、私などより遥かに力が当然あるわけですし、建前だけではどうにもならない現実も、彼らのほうが知っている事も、処理する能力があることも多いわけで。
本来、行政の現場の論理と運動の論理と、どっちが上でも下でもないんです。
本当は、これからの時代は運動と行政、政治というのはむしろ補完関係にあるべきだと私などは思いますが、まあそれはそれとして、そういうまったく別の現場に触れたとき、運動の側から来た人が、きちんとした論理や思想的な立場を持っていないと、今度は彼らの論理に全く取り込まれてしまうこともあるんですね。
川田氏のケースは以上のこととは当てはまらないかもしれませんが、ちょっと自分なりの立場から書きました。
追記:私は政治家に市民派などという定義は無意味だと思っています。優れた政策を打ち出せる政治家と打ち出せない政治家、国民に訴える影響力を持つ政治家と限定的な支持層にしか影響力をもてない政治家がいるだけです。私の政治家観ではそうなります。
しかし、皆さんの視点からすれば「市民派」というのは、国家の論理である政治を解体する思考を持っている政治家、つまり政治の内部から政治を解体する意志を持つ政治家を市民派と呼ぶのだろうと思います。この視点を確立した上でマニフェストは意味を持つわけで、「市民派」という定義をもっと厳しく原則に沿って用いる事は必要ではないかと思います。あらゆるスターリニズムも国家主義も拒否する、と言う原則論を貫き、その原則をリアル・ポリテイクスの論理(つまり国家と政治の論理)よりも絶対的に優先する、それによって政治的有効性を失っても原則を重んじる、そこまで覚悟を決めなければ市民派でもなんでもないでしょう。
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