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TAMO2様すばやい返事ありがとうさんです。
>「対する」というのは、認識行為そのものと、それをどうするかという変革に向かってのものです。
TAMO2様お示しの文章はつぎのところでしょうか?
>お互いに対して異なるやり方で行動することで、
わたしは、正直、この部分に注意していませんでしたので、とまどっていました。
よく考えてみました。この部分は、左翼にありがちな大同団結・共同行動へのアンチではないかと思います。
その例を商品の価値関係で見てみると、A=Bの商品は反省規定(反射規定とも言います)の関係ですから、AとBはあい対することで、AはBの姿に鏡像の自身を見ているとも示せます。しかし、もう一つ歩みを進めてみてください。Bは、使用価値のままに直接的交換可能性の姿態をもち交換価値ですが、Aは、使用価値の姿態をもつことで、商品形態の二重の姿態を示しています。だからAは、Bと=で結ばれるに関わらず、Bの交換価値とは異なって、使用価値でしかなく、非直接的な交換可能性なのです。A=Bで示される価値形態は、非直接的な交換可能性と直接的交換可能性の異なる性格をもつのですね。
反省規定の関係は、同一性と非同一性の両者を示していると思うのです。その例をよく示すのが、王と臣民の関係ではないでしょうか。臣民の共同でのある人物への働きかけと、それに応ずるある人物の態度が、ある一つの社会関係を作り上げますが、両者の姿態は、王と臣民として対称的なのですね。
すんません・・なんか変な理屈っぽさで・・
グシュタフ=ランダウアーさんは、王と臣民ぐらいに俺とおまえの姿性格は違うし、やりかたも違うだろうけれども、目的は同じだぜ・・・とおっしゃっているのではないでしょうか?
>まさに、革命21の持つ、商品経済に「対する」矛盾ではないでしょうか?
TAMO2様ここはもう少しご説明願えませんか?どんなことを考えて提起されているのか?・・・・ちょっとこれだけではわかりません。
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